児玉 哲彦
2010.03.09
「アーキテクチャからデザインする」
児玉 哲彦 - 慶応義塾大学 先導研究センター 研究員
児玉哲彦さんとは母校のOpen Research Forumというイベントでゲリラトークセッションに飛び入り参加させていただいた時に知り合いました。それから何度かゆっくりお話をする機会が持て、僕はビジネス寄り、児玉さんはアカデミズム寄りという立ち位置の違いはありますが、お互いの見解を補完し合える部分が多く、意見交換を楽しませていただいています。そんな児玉さんへのロングインタビューです。
インターフェイスのパイオニアに聞く
【加藤】 博士号修得おめでとうございます!
【児玉】ありがとうございます!おかげさまで。
【加藤】 俺なんもしてないですけど。
【児玉】やはり色々な人と議論しながらのことなので、やはり話すと一番アイデアが出ますね。
【加藤】 良いアウトプットするにはプロセス大事だから、そこに一杯人を巻き込めるといいですよね。
【児玉】謝辞に書けてない人とのコミュニケーションもたくさんあって、博士論文自体ができているって感じなので。
【加藤】 博士論文自体は何やられてたんでしたっけ?
【児玉】博士論文のテーマは一言で説明するのは難しいんですけど、iPhoneとかスマートモバイルデバイスが色々なところに入っていっているわけです。それって単にどこでも色々な情報やアプリが使えてオッケーって感じに思うかも知れないけれども、実は例えば携帯電話を電車の中で使っている人とか、TPOをわきまえないでデート中だけど携帯電話をいじっている人とか、逆にパーソナルなコンテンツをパブリックにしちゃったりとか、実はそういう色々なコミュニケーションのブレイクダウンの問題があって、今挙げたようなことを一つ一つ丹念に見て行くと、「ここでこの情報をこの人が利用できるべき」という適切なセットアップというのがあるべきなんです。
【児玉】例えば相手と何か話している時だったら、その相手の方とのインタラクションにコミットすることが必要だし、逆にプライバシー侵害というのはプライベートの情報を見られたくない相手に見られちゃうということだし。誰が何にアクセスしていいかということの関係性が、スマートモバイルデバイスに入ってくる。それをきちんと整合させるようなアプリケーションをコミュニケーションの支援に使ったり、街中での周辺の情報を集めるのに使ったり。
【加藤】 アプリケーション側で人がモラルにそった行動ができるように制御するってことですか?
【児玉】そういう感じ、もっと言うと、モバイルデバイスって皆普通画面を見て使うから、そうするとその画面をどういう風に見ているかというのが、人間の手と目の関係から、どういう角度にあるのかを見ると推定できる。画面を自分に向けたら自分に見えるし、画面を倒して広げたら加藤さんにも見えるし。ということを見ると、人間同士の位置関係と、人間とデバイスとの位置関係を考えると、デバイスの姿勢だけを考えても、それがプライベートかパブリックかとか、あるいは周辺の広いところに興味持っているのか、近くに興味を持っているのかとか、そういうジェスチャーとして使えるよね、という。
【加藤】 そうか、相対的な位置関係をインターフェイスにしちゃうということですね。
【児玉】それをメタファーというか、ジェスチャーにしてやると、極めて自然に操作できて、適切な状態の切り替えというのが、皆がもう慣れているプロトコルを使ってできるんです。
【児玉】だから研究自体は多岐にまたがっていて、人間の社会的な行動の中での、どういうジェスチャーをするか、どういう動き方をするかというのが、何に関心を持っているかということを示しているというところと、その動作を色々なアプリケーションの中での入力のインターフェイスとして使うということです。
【加藤】 ARとかも人に情報が紐づいちゃうと大丈夫なのかというような議論もありましたよね。
【児玉】その辺の何をこの人には見せてよくて、何を見せてはいけないのか、ということが、これだけ情報が氾濫する世の中にあってすごく大事になってます。そこを整理することが、インタラクションのデザインなんです。そこの観点が今までのユビキタスの研究では、どちらかと言うと見れれば見れるほどいい、いつでもどこでも色々なものにアクセスできるほうがいい、そういう話になってしまっていたけれども。
【加藤】 お話うかがってて思ったんですけど、接点、インタラクションというのが非常に大事になっていて、広告なども接点のデザインなんだけれども、ルールが割とわかりやすいところがあって、やっちゃいけないこととか、できないことが多いから。だけど、コミュニケーションということで考えると、あまりにも広義で、やれることが多すぎて。
【児玉】いやあ、本当にそうです。何でもありになっちゃうから。でもやっぱり人間の場合には文化というのはまさにコミュニケーションのプロトコルであって、Edward T. Hallという文化人類学者が定義しているんですけど。コミュニケーションに関わらないことを、あまり文化とは呼ばないですよね。そのプロトコルはそれぞれの固有の文化によって規定されているものが色々あって、例えば携帯のマナーの話で言うと、携帯電話を公共の場で使っちゃいけないとされているのは日本くらいで、やはりマナー違反だという人もいるし、でもアメリカの地下鉄では使いまくりですよね。それはプロトコルが違うわけで、それはそれまでに地域の人達が培ってきた文化の延長上に何を自然と感じるか、というところに新しいプロトコルが作り上げられていくので。
【児玉】ツールが入ってくることでプロトコルが変わって来る面もあるし、僕がやっているみたいにプロトコル、今まであったものをなるべく継承してやっていくという考え方もありますよね。いずれにしても既存の文化を全く無視して新しいメディアのインタラクションをデザインすることはできないです。
【加藤】 逆に言うとテクノロジーってその辺のところをある種おざなりにしてきたってことなんですかね。
【児玉】やっぱりそうだと思っていて、最近成功しているサービスというのは、基本的に技術的な新規性じゃなくて、コミュニケーション・プロトコルのデザインになっていて、Twitterなんかその典型例ですよね。何の新規性もないけれど、コミュニケーションのインタラクションが新しかったから、これだけ使われて広がっていった。
社会科学から見るプロトコル
【加藤】 技術の延長に何があるかという考え方ではなくて、プロトコルの延長に何があるかという考え方も大事なのかも知れないですね。
【児玉】そうですそうです。僕は博士論文で社会科学の歴史的流れを踏まえるために一章丸々費やした男で、これはユビキタスの研究者の中では極めて珍しい。
【加藤】 時系列で見ていくと児玉さんが指摘したような流れになっている?
【児玉】インタラクションという言葉をそもそも流行らせたのは、20世紀のErving Goffmanという社会学者で、この人はコミュニケーションというのは単に記号のやり取りではなくて、その中に色々な相手に対する関わり合い方などの身振りなんかが、実はノンバーバルな情報としてたくさん交換されている、ことを初めて指摘した人なんです。この人はコミュニケーションは劇場における演技のようなものだと言っていて、演技だと台詞だけじゃなくて道具のセットアップ、大道具、小道具、それから役者の立ち位置、役者の表情、身振りなど全部が意味を持っている。という風に僕らは社会的に見えるパーソナリティを調整している、というのがGoffmanが提唱した説で、これは社会学に衝撃を与えたんですね。
【加藤】 最初にうかがっていた話と見事に重なってきますね。
【児玉】まさにそうなんです。ソーシャルメディアも今Goffman社会学から見ると面白いと思っていて、例えば仮面とかパーソナリティを使い分けるという話をソーシャルメディアに適用すると、Twitterなどを使っていて一つのアカウントでパーソナルなことと仕事のことの両方をやるって無理があったりするじゃないですか。それは切り分けてやらなければいけないとか、Goffmanはそれを表舞台と裏舞台という言い方をしていて、パーソナルな場でのペルソナとパブリックな場でのペルソナという2つを使い分ける、そういう理論がそのままこれからソーシャルメディアにおいても必要になってくる、一つのアカウントなんだけど、パーソナルなペルソナとパブリックなペルソナを使い分けるというような機能が足りないとか、直接応用が効く部分がありますね。
【児玉】さらにこのGoffmanの話を発達させたのがフランス人の研究者のJoshua Meyrowitzで、間にMarshall McLuhanが入ってくるんですけど、McLuhanが言っているのはメディアそのものが内容ではなくて、メディアの形式が人間に強い影響を持つということで、「メディアはメッセージである」という有名な言葉がありますけど。McLuhanが言っているので、もう一つすごい大事なことは、メディアというのは人間の身体の延長であると。だから世界中のどんなところでも電子メディアを使えばリーチができて、そこに影響を及ぼすことができる、逆にそれを知覚することもできる、という体の延長であるということ。それによって人間が変容する。
【児玉】Joshua Meyrowitzというのは80年代くらいに本を出しているんですけど、これは1984年の本なんだけれども、さっきのGoffmanとMcLuhanの議論を合体させて、人間はどんな相手といて誰に見られているかというのを、自分のインタラクションにおける振る舞いで考慮している。問題はそれを電子メディアによって拡張されると、関係性が全然変わってしまうじゃないですか。さっきまさに僕が問題にしたみたいな話で、Meyrowitzが例で挙げているのは、レストランの厨房で、「あの客こんな風だよね、変だよね」と言っているのが、たまたまインターフォンのスイッチがオンになっていて、客の方に伝え聞こえちゃったりすると、全然おかしなことになるわけじゃないですか。Meyrowitzが天才なのは1984年というまだインターネットやパソコンが一般的じゃない時代に、こういうことをもう予見していて。
【加藤】 「ダダ漏れ」を予見していたと。
【児玉】そうそうそう!それがまさに今の、Twitterなりスマートフォンなり、あらゆるところであらゆるところの情報がやり取りされるという世界になる。すると、これまで築き上げられてきた社会的な場のセットアップ、厨房と店先が分かれていたりとか、プライベートな場とパブリックな場が分かれているとか、いう境界が皆なくなっていってしまうという方向に情報ビジネスの発達が向かっていて、これがトランスペアレントソサエティに最終的に結びついていくというのが僕の描いている歴史観というかストーリーですね。
【加藤】 たしかに技術とかデザインとか、その辺でモラルを作っていかないと、法律作って縛ったりしても無理ですよね。
【児玉】その議論について言うと、Lawrence Lessigっているじゃないですか。Creative Commonsを作った人が社会におけるパワーというのを4つ挙げていて、まず倫理、法律、経済性、そしてシステムのアーキテクチャの4つだと言っていて、Lessigの談によると、色々な社会的な規制はまず倫理の要請から発生するわけですよね。倫理は法律を通じて実現しようとする。その法律が規制できるのはアーキテクチャの規制を経済性でもって規制できるわけですね。つまり違反すると罰金をとられる、非常に参入できなくなる。そうすると経済的にデメリットがあるから、法律はアーキテクチャに働きかける。でも最終的に働きかけるのはアーキテクチャしかない。そういう倫理、法律、経済性、アーキテクチャの関係で考えてやると環境をどうコントロールするかというのがわかってくる。
【加藤】 エコシステム。
【児玉】そうですね、それを明確化できるというか、それぞれの役割というのを定義できる、というのはすごくいい話だと思ってますね。
【加藤】 そういう考え方で、切り分けないで結びつけて考えてかないと成り立たないですよね。
【児玉】なんか起こるととりあえず法的に規制という考え方があるんだけど、それは早まっていて、今言ったような環境をコントロールする要素を、どう全体最適で設定していくかということを考えないと、頭ごなしに全部規制ということになってしまうと良くないと思うし、しかも公的規制が実行力があるかということは、そのアーキテクチャによるんですよね。
【児玉】日本社会の場合には色々な人の利害関係を全部調整しないと全体が動かないというストラクチャーがあって、誰かが決めればそこに正当性があって皆が従うということではない、だから調整型のリーダーシップが求められてきたわけだけれども、もう一方で歴史的に見ると、それがまとまって合理的にやらなければならないとなるのは、残念ながら外圧があった時だけだと思うんですね。黒船であったり、敗戦であったり、という時にしかトップダウンの社会がドラスティックにかわるということは、近代以降ないわけですよね。
【加藤】 とすると、TwitterとかUstreamは黒船と見なせるんですかね?
【児玉】我々の周りではTwitter流行ってますし、三木谷さんとか孫さんみたいに先進的なトップというのは使いこなしてますけど、ものすごい少数派だし、それを以てして今の社会全体のスキームが変わるほどのパワーになるかというと、僕にはまだそこまではイメージできないですね。
【加藤】 でも面白いですよね。皆未来を予見していて、その時にはまだツールが揃ってなかったけど、ツールが揃ってみたらやっぱりそうなっていた、という話ですよね。
【児玉】そういうことってあって、例えば音楽のダウンロード販売とか、電子書籍とか、90年代くらいからやっている人たちがいたけど、その時代の通信回線であったり、課金システムであったり、ハードであったり、色々なインフラが整わないことには、やはりそれは実現出きなくて、その時代ダメだったからやっぱりそれはうまくいかないんだって言う人もいるんだけど、それは間違っていて、適切なタイミングでそれを実現すれば、実現する。僕は昔任天堂に勉強しに行った時に、宮本茂さんに言われたんだけれど、10年先のことは10年後にやればいい、それは横井軍平さんの枯れた技術の水平思考の話と直結していて、今入手可能なテクノロジーでどんなことができるか、という時間軸で考えてないと、理想的にはこうなるということは研究者が言いがちなんだけれども、現実のマーケットの中とか、現実のインフラの中とかで何ができるかということに併せてものを投入して行かないと、それはやっぱり実現しない。これは、研究と事業をやるのとの大きな違いだと思うし、「賢者は歴史に学ぶが、愚者は経験に学ぶ」という話があって、自分の経験だけで一回やって失敗した、それはもううまくいかないと考えてしまわないで、歴史の流れの中で何をやらなければいけないか考えていかないといけないと見誤ると思いますね。電子書籍もPanasonicもSONYもやったけどうまくいかなかったのも、Kindleが3G通信のマーケットとくっつけて売ったら売れちゃったり。
【加藤】 僕も2000年くらいから見てますけど、あたるものは決して新しいものではない。
【児玉】むしろ適切なタイミングできちんとしたサービスを作り上げられた方が勝つというのが歴史の鉄則ですよね。一方で手をつけておくっていうことも大事で、AppleもタッチインターフェイスなんかはSteve Jobbsが復帰した直後くらいからきっと研究してると思うんですよ。でもリリースできるレベルに至ったのがようやくiPhoneくらい、あるいはタブレット・コンピュータということで言うとようやく最近iPadくらいになって、初めてそれができるようになる。それはiPhoneでタッチ・インターフェイスに慣れて、タッチインターフェイスそのものを受け入れられるようになってきたこともあるし、あるいはバッテリーの持ちとか、通信環境とか、モバイルデバイスの価値を向上させるために必要なインフラが十分整ってきた、っていうことでようやく実用的なものができるようになってきた、ということだと思うんですよ。
【加藤】 僕一つ問題意識があって、インタラクションってどんどん増えてるじゃないですか。でもそれにプライオリティをつけるのは難しい。ETのWEBではそれを経験過多の時代という言い方をしているんですけど、経験の飽和に慣れ、大量の経験を捌き、多様な経験を管理する、というのは難しくて、経験に対する審美眼は、接する経験の量に比例して、きっと磨かれるはず、という捉え方をしているんですよね。
【児玉】そういう結論に至らざるを得ないと思うんですけど、僕はその結論にはインタラクションデザイナーとしては至りたくなくて、僕らのミッションというものはそれを解決するような過多にならないようなインタラクションの方法とか環境をデザインすることが使命ですよね。
【加藤】 それは一つの結論として、すごいわかりやすいですね。
【児玉】Twitterのすごいと思うのは、自分が見るべきものはちゃんと記録し、そうじゃないものは色々流れては行くけど、別に触れていなくても流れていってしまうことができる。
【加藤】 それはTwitterのプロトコルというところですよね。そういう文化だからという。
【児玉】そうそう、色々な面があって、整理すると、文化的な面、皆の価値観的な面と、それからリプライとかダイレクトメッセージとかいうアーキテクチャ的な面という両方があると思っているんですけど、僕らが注目しているのはアーキテクチャが文化を基本的に作るだろうという話で、あのタイムラインだと全部追おうしても見れないから、ハッシュタグなりリプライなりでフィルタリングするしかないとなっていく、結果やり取りのインタラクションがすごくフィルタリングされたインタラクションになっていく。
トランスペアレント・ソサエティ
【加藤】 そうするとトランスペアレント・ソサエティというのも、アーキテクチャから文化を作っていこうということになるわけですね。
【児玉】全くそうです。ちょっとMarxistみたいになっちゃうんですけど、さっき言った話って上部構造と下部構造があって、ただMarxが言ったことって、下部構造が上部構造を規定するわけじゃなくて、下部構造と上部構造の間にもインタラクションがあるわけなんですよ。こういうものが必要だから、という価値観が色々あって、モノを作るわけなんだけど、モノとか技術とか僕らが予想しない形で使われて新しい価値観、新しい行動、新しいプロトコルみたいなものを作っていくんだと思うんですよ。というところが、やっぱり一番面白いところで、技術への興味は尽きないですね。
【加藤】 それはモノ作りの醍醐味みたいな言葉に言い換えられますよね。
【児玉】そうです。それを通して文化と直接自分がインタラクションする部分があるから。だからトランスペアレント・ソサエティと言うと、色々な見方ができるし、完全透明社会、アナーキスト的な話だと誤解する人もいるんだけど、それはまあ戦略的にそういう過激な言葉を選んだわけで、技術の論理としては不可避にそれを志向するわけですよ。技術屋というのはいつでもどこでもどんな情報でもアクセスできるようにする、というモチベーションでドライブされているはず。技術のモチベーションとしてはそこに向かっていくわけです。僕はそれがいかんとか、歯止めをかけなきゃいかんとか、言っているわけではなくて、それが突き詰まってくると、多分我々の行動パターンとか考え方も変わってくるし、それはこれまでの慣習とか規範とかこれまでの文化のプロトコルによる制約も受けるし、というせめぎあいがこれから起きると、であるなら、そのせめぎあいをいち早く経験した人の方が、多分次の世界をデザインするはず、ということなんですよね。
【加藤】 僕思うんですけど、児玉さん達みたいなアーキテクチャ・デザイナーを色々な組織に送り込まないといかんのかも知れないですね。
【児玉】CIOのいない会社というのが多いんですよね。CIOというポジションが、もっと会社組織の中で設置されて、社内で企業内の情報管理をレスポンシブルにする人間が必要だし、そのCIOのリテラシーというのは、これまでの社内システムを作るとか、業務用システムを作るという上流工程のコンサルみたいなスキルではなくて、ソーシャルメディアを使いこなすスキルなどが必要になってくると思います。だから最近CSO、Chief Social Officerみたいなものをちょっと考えていて、CIOというかCSOが必要なんじゃないかと思うんですね。こないだのUCCのTwitterアカウントが炎上したということも、あれもソーシャルメディアの基本的なリテラシーがあれば、絶対やらないこと。逆に加ト吉とか試行錯誤の中で、CSO的な人がいて、自分で身につけたリテラシーで面白いことをやっている。その辺のノウハウが体系化された上で、役職としてのソーシャルメディアのオフィサーが組織には必要。
【児玉】この議論というのは企業だけではなくて、公共部門とか政府とかのレベルに本当は必要な話で、Obama政権も政府のGoverment CIOというのを置いていますし、日本の今の政権で政府のCIOに相当する人材がいるかというと、ちょっとねえという感じがしますよね。Obama政権の場合も民間から登用してますけど、ソーシャルメディアのオフィサーを公共部門に対しても担う人が必要だし、そういうリテラシーが体系だって必要なんだけれども、ノウハウが個別の事業者の中では蓄積されていても、あまり体系だって知られてないし、これはアカデミックな意味で非常にチャンスとも言えるんだと思うんですよね。
【加藤】 知の編纂ですね。
【児玉】そのものです。僕らの世界で言うと面白いのは90年代にナレッジ・マネジメントとかCSCWとか呼ばれていた分野が密接に関連していて、当時のパソコンとかネットワークを使って、企業の中での知の流通とか、組織の中での知の流通というものを効率化できないか、ということを色々やられていて、今で言うとイントラネットというのはそれらの考え方の流れに基づいている。でもこれって全然うまくいかないんですよね。それがなぜかっていうのを振り返って考える必要があって、ブログとかTwitterをやるのは、そこにセレンディピティが生じるからで、そこにオープンな知の広がりがあるからであって、経営に個人のナレッジ・マネジメントとか組織のCSCWってグループウェアみたいなものに限界があったのは、メンバーが決まってしまうと、そこにセレンディピティが残らないんだと思うんですよ。
【加藤】 上から下を管理するための仕組みでしたよね。
【児玉】やはり個人が主体になって、個人がオープンに繋がって、WEB型のアーキテクチャになって、初めてコラボレーションのツールであるとか、ナレッジ・マネジメントとかがうまくいく。WEBのオープンな仕組みというのはすごいですよね。その上に乗っかって、ブログのトラックバックであるとか、Twitterのフォローであるとか、オープン系のシステムの価値が強まってますよね。
大学は役割を終えた
【加藤】 そういう意味で言えば、我々の大学の話になっちゃうんですけど、SFCってインターネットがあっても、あまり外とのインタラクションを持ててなかったというか。でもこういう時代になってくると外部因子が色々入ってくるから、オープンな方向にSFCが突き進むという意味で、トランスペアレント・ソサエティをSFCで実践しようよというのは面白いし、それやらないとあそこは地の利がないから、難しいですよね。
【児玉】そうしないと生き残れないわけですよ。だけどこれは大きなレベルで話をしなくてはいけなくて、なんで11世紀にボローニャに大学ができたかというと、その時代の知の流通そのものが物質的なものに紐づいていて、大学文化華やかになるのは、Gutenbergが活版印刷を可能にして、印刷物という形での知の流通が主流になって、それがもう500年くらいスタンダードだったと。その間に大学という場所、あるいは書籍の形だけじゃなくて、人が直接インタラクションする、あるいは論文・出版物という形のメディアで知の流通をするということが、500年間主流だったんで、それによって大学と学会、学会の論文誌みたいなものを組み合わせた知のあり方というものがあって、それはつまりその時代にあってはオープン化だったわけですよ。それがアカデミズムという仕組みによって初めて可能になった。一部の聖職者なんかが独占的に知識をコントロールするというそれまでの世界から、オープンに知を流通させるというツールとして大学が学会論文みたいなものがあったわけです。それはただ結局物質的なものに依存しているので、リーチは結局限られるし、人間が実際集まらないといけないということで収容人数の限界もあるし、大学にせよ学会にせよ結局限られた人のコミュニティにならざるを得ない。それでもそれがなかった頃に比べると断然マシなわけです。
【児玉】ただ、それがこの21世紀、知の流通というものが、圧倒的にネットによって開放されたわけですね。そうすると大学とか学会の役割から言って、真っ先に有り様が変わらなければいけない。情報の流通という役割が開放されてしまえば、学会に出すよりも、自分のブログとかでコンテンツを公開してフィードバックをもらった方が、多くの人のフィードバックがよりリアルタイムでもらえるし、継続的なやり取りもできるので、学会のメリットはどんどん損なわれていってるし、講義の内容にしたって、今YouTubeもあるしUstreamもあるし、その大学に所属しなくても、ある知識内容を伝達する側面に関しては、もう完全に役割を終えたと言っていい。
【児玉】という状況があって、そうなった時に、知の流通という教養みたいな役割がなくなった時、本来の大学のあり方というのは何かということを考えなければいけない、というのが大学がまず今突きつけられている歴史的な状況ですね。
【加藤】 それに多分経済的なことと、少子化と、色々多分付随してきている。
【児玉】自分の思うことで言うと、2つくらいあって、まず1つ目はただ知識を得る場とかスキルを訓練する場ということではなくて、コミュニティでしょうね。そこにある知的なコミュニティが大事で、僕と加藤さんも結局SFCを介さないとこうやって会ってないかも知れないし。でも一方で言えば、卒業して随分経ってからこうして知り合ったというのは、ソーシャルなものを通してだと思うし、そこの役割は今ソーシャルメディアで色々代替できると思うし、そこを積極的に活用していって、知のコミュニティを作っていくというのは一つの大学の今後益々強調される役割なんだろうと。
【児玉】もう1つ考えなければいけないことは、7割の人が大学にいく必要がありますか?ということも非常に疑問です。コミュニティづくりみたいな役割も今ソーシャルメディアで大分代替できると思いますし、ある種の職業的なもの、本当の専門家になろうと思うと、僕は本当もっと早くから、トレーニングする必要があると思っていて、23歳とかになってからじゃ遅いと思うんですよ。加藤さんだって18くらいから今の仕事に繋がるトレーニングを積んで今のキャリアがあって、自分だって10代でやってなかったら今のポジションにいないと思うんですよ。それを7割もの人間がゼネラリストになってホワイトカラーになるようなキャリアじゃないですか最終的には。そのためだったら意味があるかも知れないけど、7割の人がそれで食うっていうのが無理がある気がする。
【加藤】 それは北山君も言ってましたね。
【児玉】あれ僕もその通りだと思っていて、食うっていうことで考えると、時間の無駄だよねえ受験勉強とか、大学の勉強とか。そんなことよりも、職能教育やった方がいいと思うんです僕は。大学来るのが3割でいい。
【児玉】最近読んだ本の中で正しいと思ったのは、ドイツとかフランスとかを見ていると、かなり早い段階で人生のコースを統一試験やなんかでセレクションしてしまって、キャリアを最初から狭めちゃうという意味で議論はあるのかも知れないですが、現実に大学出ても7割しか就職出きないというくらい、大学出の人材の需要がない世の中では、現実的にもっと多くの人が食っていくために違うキャリアを歩まなきゃいけない、現実の経済がそうなってますよね。4年間モラトリアムしてるなんていうのは、今の社会では有り得ない。
【児玉】Steve JobbsもBill Gatesもドロップアウトだし、Sergey BrinとLarry Pageも結局博士号取らないでやめてるわけです。と考えると成功と大学教育との関係ということで言うと、もうその中で社会に関わることのできた人間は、大学の学位っていらないじゃないですか、はっきり言って。その意味でも大学の立ち位置っていうのは大幅に変わらざるを得ない。
【加藤】 大学を減らさないといけないし、生徒数を減らさないといけない。そうしたら、大学のシステムも多分全く違うものにして行かないと成り立っていかない。
【児玉】やはりむしろ職業訓練校みたいなものを増やすべきだし、そっちへ行く人を支援するべきだと思います。そういうマイスターみたいな人を増やさないと。「モノ作り国家」って大学に7割も行ってたらできるわけがないじゃないですか。職人が育たないんだから。であるなら違ったライフコースをちゃんと提示して、制度的にもそれを支援して、ということをやれば失業率も減らせるし。
【加藤】 そうすると大学自体はもっと純度を上げていかないといけないということですかね。
【児玉】はっきり言って現場のできる人は今いっぱいいるんですよ。ただ日本に圧倒的に足りないのは、舵取りのできるエリートがいないわけで、そういう人材というのは別個に育成しないとならないと思います。別にそのコースにいかなかった人がトップになることを妨げる必要はない、その必要はないんだけど、全体観を持ってものを見るとか、責任をもって意思決定ができるとか、全体最適が図れるような頭の使い方ができるというのは、今の教育の中ではどうやっても身につかないから、そういう人材が全然足りてないというのが日本の状況だと思うし、それを作ることに大学教育は特化して行くべきだと思います。職能に関してはOJTでやった方が早いんです。その方がクオリティが上がるし、お金の負担も少なくて済んでいいっていう人、本当はいっぱいいるはずですよ。4年間遊んでいたい人なんて今いないはずですよ、7割もいるわけないですよ。
【児玉】僕はそういう仕組みを圧倒的に支持しますね。そういうスキームにしないと、大学の意味がもうない。
【加藤】 そうしないと次の時代のサステナビリティを確保できないということですよね。
【児玉】経済の状況とメディアの状況が密接に絡み合ってて、学び方、就職の仕方、そこから先のワークスタイル、皆の働く仕組みを変えていかなければいけない、本当にできるのかという気もしますけど、変わらざるを得ないと思いますね。
